記録

ちょっと重い内容が含まれてるかと思います。そういうのいやだったら戻ってくださいね。







北海道のばあちゃんが死にました。

93歳という年齢でしたので、大往生と言っていいのではないでしょうか。

悲しいというよりは、これだけ生きたことの方に敬意を表するのがふさわしいと思いました。実際、この三日間、普段遠方にいてなかなか会えない親戚が集まったこともあってか、笑いの方が圧倒的に多かった気がします。多分ばあちゃんもそれを望んでいたんじゃないかと思います。
僕の中でのばあちゃんは、頭がよく、意思が強く、姿勢が正しく、行動的な人で、そして子供にも厳しい人、という印象が今でもあります。いろいろ生前の記憶を思い起こしてみても、注意されたこととか怒られたこと、意見が合わなくてムカついたこと、そんなことばかりを思い出します。僕が思春期だったからという理由もあるんでしょうが、多分親に対してのそれよりずっとたくさん反発していました(さすがに最近はありませんでしたよ)。お世辞にも優しい人だったとは、少なくとも僕は、思いません。ただ、怒りとか腹立ちという感情は、喜びなどよりずっと記憶に深い跡を付けている気がしていて、今こうやって振り返ってみると、なんとなくぽっかりと何か欠けたような寂しさがあります。

泣かないつもりでいましたが、最後に顔を見たときだけは堪えられませんでした。どうしてだろう。






死んだばあちゃんについて、非常に強く印象に残っていることがあります。
とにかく、写真を撮る人でした。本当にどうでもいい瞬間をとにかくしつこくて嫌になるくらい撮る人でした。そこに、写真をきれいに美しく撮るという考えは無く、ただ記録をする、というものでした。それは、写真だけに限らず、日記を書き続けていたり、過去の出来事をひたすら文字に書き起こしたり、自分の身の回りに起こるすべてを記録として残す、そんな人でした。

お通夜が終わった後、見せてもらったのは、ばあちゃんが安いノートに自分でつづった自分史でした。90余年の人生がこと細かく記録されてました。僕は、生前からそういうことをしているのをなんとなく知ってはいましたが、この世を去った瞬間にそれがとてつもなく強烈に鮮烈に価値のあるものに変わりました。“一族の宝”と言ってもまったく過言ではない、本当に貴重なものに変わりました。感動し、誇りに思いました。

歳をとったからなのか、ここ数年僕は、自分が、どういう経験をしどういう気持ちを持った人たちから生まれたのか、ということに強く惹かれています。それを“自分探し”という言葉にすれば安っぽくなりますが、でもそういうことかもしれません。自分を形成するものをできる限りたくさん知って自分が何者なのか知っておきたい(というよりは、知ら“なければならない”)、こう思っています。それでどうしたい、というよりは、これは僕としては珍しく本能的な欲求です。


なんの偶然なのか、僕は今年から日記をつけています。また、とある友人はもはや感動するレベルでライフログをつけています。常にノートを持ち歩き、話しながら何かを書いている人が、周りにたくさんいます。

今回、ばあちゃんのまさに「人生のログ」の存在を見たことにより、そういうことのすべてがひとつになった気がします。
たとえば僕の日記や周りの友人たちのメモ等を今そう呼ぶにはまだ大げさすぎますが、ばあちゃんのそれはまさしく“生きてきた証”。一つ一つのパーツは小さくてくだらないものばかりかもしれないけど、それらがひとつのまとまりになった時にそれが歴史と呼べるものになることを目の当たりにしました。

「『今日の天気は晴れだった』、これだけでも書きなさい、ってばあちゃんに言われたことがあるんだよね」
と、ばあちゃんの子供である僕のおじさんが言っていました。
そういうことなんだと思います。



多分、僕が今日書いてきたことは「今さら」という一言で片付くことでしょう。おそらくはるか昔から、賢明な人は記録をすることに価値を見出していたであろうし、今でも本屋さんに行けばそういうことが説かれた本があるんでしょう。
でも、僕がその瞬間こう感じたということを記録したのだから、これで正解なんですよね、うん。